入鄽垂手 (にってんすいしゅ)

日々感じたこと

入鄽垂手(にってんすいしゅ)

入鄽垂手(にってんすいしゅ)という言葉に出会って

ある本を読んでいて、気になる言葉を見付けました。
入鄽垂手(にってんすいしゅ)。
私はこれまで聞いたことがなく、読み方も意味も、最初はまったく分かりませんでした。

調べてみると、この言葉は禅と深く関係しているようです。
禅は中国から伝わり、仏教を源流として発展してきた教えで、思考や理屈よりも、体験や直観を重んじる世界観を持っています。

入鄽垂手は、『十牛図(じゅうぎゅうず)』という禅の書物に登場する言葉だそうです。
十牛図は、悟りに至るまでの十の段階を、牛と牧人の物語として描いています。

入鄽垂手の意味をたどってみる

鄽(てん)とは、町、人の暮らす場所。
垂手とは、手をぶらりと下げた、力の抜けた姿。

文字の意味から考えると、
手をぶらりと下げて、人々の行き交う町に入っていく姿
何かを求めるでもなく、何かを主張するでもなく、ただ在る状態
そんなイメージが浮かびました。

十牛図では、仏の心を牛にたとえています。

・逃げた牛を探して旅に出る
・ようやく見付け、苦労の末に捕まえる
・牛と一体となり、やがて牧人も消える
・残るのは、自然と宇宙の理(ことわり)だけ

しかし、それで修行が終わるのではなく、
最終段階として示されるのが「入鄽垂手」なのだそうです。

悟ったまま山にこもるのではなく、
何も持たず、何も背負わず、
再び人の世へ戻っていく。

私がこの言葉に惹かれた理由

私は十牛図を通して深く学んだわけではありませんし、解釈が違っているかもしれません。
それでも、この言葉に強く惹かれました。

人の苦しみは、固執から生まれることが多いように感じます。

子どもだから
親だから
夫だから、妻だから
上司だから、部下だから
パートナーだから
医師だから、店員だから

○○だから、これくらいしてくれて当たり前。
そんな思いが、自分の中に知らず知らず積み重なってはいないでしょうか。

当たり前だと思ってしまえば、
してもらっても感謝は生まれません。
そこには、期待と失望だけが残ります。

入鄽垂手の「垂手」は、
何も持っていない手
握りしめていない手
手放している状態
を表しているように、私には感じられました。

地位や名誉、過去の栄光、努力して得たもの。
それらに、私たちは気づかぬうちにしがみついているのかもしれません。

手放せば、肩の力が抜け、体も心もやわらかくなる。
人は本来、何も持たずに生まれてきたのだから。

何も持たず、何も構えず、
それでも人の世に戻っていく。

入鄽垂手という言葉から、
そんな気楽さと安心感を受け取りました。

手放したとき、人は宇宙と自然につながる。
宇宙は、いつでも味方。
安心して、身を委ねてもいいのかもしれません。

この言葉から受け取った、私なりの感想です。