丙と癸の大きな違い

陽光が差す渓谷の隣で雨が降り、水が大地を流れる幻想的な風景 陰陽五行説
陽光が差す渓谷の隣で雨が降り、水が大地を流れる幻想的な風景

四柱推命では、生まれた日の天干である「日干」は、その人の本質を知るための大切な要素のひとつです。

十干には、それぞれ自然界の象意があります。

丙(ひのえ)は「太陽」
癸(みずのと)は「雨・露・霧」などの水

この二つを自然界の姿から考えてみると、人として現れたときの違いがとても分かりやすくなります。

丙は 自分から光を放つ

太陽は、自ら光を放っています。
誰かに照らしてもらって光っているわけではありません。

そして太陽が出れば、そこにあるものが明るく照らされ、見えるようになります。

この性質は、丙の人にもよく表れます。
丙の人は、自分がどう思っているのかを比較的はっきり表します。

嬉しければ嬉しい。
嫌なら嫌。
やりたければやりたい。

もちろん命式全体によって表れ方は違いますが、基本的には、自分の内側にあるものを外へ出すことに、それほど抵抗がありません。

そのため周囲から見ると、「分かりやすい人」と映ることがあります。
良くも悪くも、自分の気持ちや考えが外に現れやすいのです。

癸は 自分の形を押し出さない

一方、癸は雨や露などの「陰の水」です。

雨は、「この土地には、こういうふうに降ろう」などと考えて降っているわけではありません。
ただ、雨として降ります。

ところが地上に降りたあとの水は、その場所によって姿を変えます。

土なら染み込みます。
窪地なら溜まります。
傾斜があれば、低いほうへ流れていきます。

器に入れば、その器の形にもなります。

水自身が「相手に合わせよう」と考えているわけではありません。

水というものが、もともと固定した形を持たないため、結果として周囲の形に沿うのです。
ここに、癸という十干の特徴がよく表れているように思います。

「相手に合わせる」とは少し違う

癸の人が控えめだったり、その場に応じて態度が変わったりすることがあります。

それを単純に、

「相手に気を遣っている」
「相手に合わせようとしている」
と説明すると、私は少し違うように感じます。

最初から「この人に合わせよう」と考えているとは限らないからです。

むしろ癸は、自分の形を強く外へ押し出さないため、人や状況との関係の中で、結果的にその場に合った形になっていく。
そんなふうに考えると、自然界の水の姿とよく重なります。

昨日と今日で周囲の状況が違えば、現れ方が違って見えることもあるでしょう。

水が入る場所によって形を変えるように、そのとき置かれた状況によって、自然に形が変わっているのかもしれません。

丙から見ると 癸が分かりにくい

丙は、自分から光を放ちます。

「私はこう思う」
「私はこうしたい」
というものが比較的表に出やすい。

ところが癸は、自分の輪郭を丙ほど強く外へ出しません。

そのため丙の人から癸の人を見ると、

「あなたは結局どうしたいの?」
「どうしてはっきり言わないの?」
「昨日と言っていることが違うように感じる」
ということが起こる場合があります。

でも癸からすれば、意図的に曖昧にしているとは限りません。
昨日と今日では、周囲の状況が違う。
その違いによって、自然に現れ方も変わっているのかもしれません。

癸から見ると 丙も不思議に見える

では反対に、癸の人から丙の人を見るとどうでしょう。

丙は太陽です。自分から光を放ち、自分が思っていることを比較的そのまま外へ表します。

癸の人からすると、
「どうしてそこまではっきり言うんだろう」
「そんなことまで言わなくてもいいのでは?」
「もう少し周りに合わせてもいいのでは?」
と感じることがあるかもしれません。

でも丙本人にしてみれば、相手を困らせようとしているわけではありません。

太陽が自ら光を放つように、自分の中にあるものが、そのまま外へ現れやすいのです。

だから丙から見れば、癸は「なぜはっきり言わないのだろう」と不思議に見え、癸から見れば、丙は「なぜそんなにはっきり言うのだろう」と不思議に見える。
ここが、とても面白いところです。

太陽と雨 どちらが正しいわけでもない

丙と癸は、とても対照的です。

丙は、自分から外へ光を放つ。
癸は、固定した形を持たず、周囲との関係によって姿を変える。

お互いに、自分にとってはごく自然なことをしているだけなのに、性質が違う相手から見ると、それが不思議に映ります。

だからこそ、「どうしてこの人は私とこんなに違うのだろう?」
ということが、人間関係の中では起こるのかもしれません。

太陽には太陽の役割があり、雨には雨の役割があります。

十干を学ぶ面白さは、人の性格を決めつけることではなく、自然界の姿を通して「なぜこの人と私はこんなにも物事の捉え方が違うのだろう」と理解できることにもあると思います。