入鄽垂手 (にってんすいしゅ)

感想
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入鄽垂手(にってんすいしゅ)

ある本を読んでいて、気になる言葉を見付けました。私が初めて聞いた言葉でした。この四文字漢字を「にってんすいしゅ」と読むなんて、難しすぎます。

入鄽垂手(にってんすいしゅ)は、禅と関係があるようです。禅は中国から来た教えです。

禅の教えは主に仏教から派生しています。禅は中国の禅宗(Chan)や日本の禅宗(Zen)として知られ、仏教の一派として発展しました。禅の根本的な考え方は、直接的な体験や直観を通じて悟りを開くことを重視しています。これは、坐禅(ざぜん、座禅)や禅の問答(公案、こうあん)を通じて実践されます。禅の哲学は、特に中国の禅宗の発展において、仏教の教えをより直接的で実践的な形で表現する試みとして成立しました。~ChatGPTより~

入鄽垂手(にってんすいしゅ)の意味は何でしょう

 『十牛図(じゅうぎゅうず)』という禅の書物があり、悟りに到る十のプロセスが示されているそうです。

廊-人々が行きかう町のこと  垂手-ぶらりと手をさげた姿勢のこと  合わせて考えると、「手をぶらりと下げて、人々が行きかう町に入る状態」「にぎやかな町に来てもあてもなく、何もせず、ぶらぶらする状態」だと、想像しました。

分かりやすい説明を見付けましたので、かみ砕いてお伝え致します。

私たちが本来持っている「仏の心」を「牛」にたとえています。仏心(牛)を尋ね、見付け、自在に操ることができたら、何もかも忘れて無の境地に到達するとされます。しかし、それが修行の終わりではなく、最終目標は「入鄽垂手(にってんすいしゅ)」だそうです。

「鄽」は、みせとも読むようです。「鄽」は住居やお店、町つまり、人の生きる場所の例えです。

・ある牧人が、逃げた牛を探して旅に出た

・ようやく見付けて、格闘の末に捕まえた

・家に帰ると牛と牧人は一つとなり、さらに牧人は消えた

・残ったのは美しい自然と大宇宙の道理だけだった ~出典:『十牛図』第十牧人~

入鄽垂手(にってんすいしゅ)の感想

私は、「十牛図(じゅぎゅうず)」と言う書物を読んでいないので、深くを追究することはできませんし、解釈は違っているかとも思います。ただ、この言葉に興味を持ったので、私の感想を書きます。

人々の苦しみは固執から生まれます。子どもだから、これ位してくれて当たりまえ。親だから、この位してくれて当たり前。夫だから、妻だから、上司だから、部下だから、パートナーだから、医師だから、定員なんだから、。。。。。。。数え上げたら切りがありません。

これらすべては「固執」です。「○○だから、してくれて当たり前。。。。」そんな考えが自分の中にありませんか?してくれて当たり前だったら、何かをしてもらっても「感謝」等できるはずがありません。

私が「入鄽垂手」に惹かれたのは、多分、垂手=つまり、何も持っていない状態、手放している、固執していない

と言うところだと思います。そして、気楽で、リラックスしています。

地位も名誉も過去の栄光も、努力して得た物に、固執してはいませんか?

手放せば、肩の力も抜け体も柔らかくなるのでは?と思います。人は初めから何も持っていないのです。

手放せば、宇宙と繋がることができるのです。宇宙はいつでも味方です。安心して、身を委ねてはみませんか?「入鄽垂手」の言葉から受けた感想を書いてみました。